などが再建され、外観は一応城として見られるようになった。
復元された城の門をくぐると、石垣がくずれ、地面が堀り起されて、無数の穴があき、石ころが散乱している。これは城跡の発掘調査のためだろうかと思ったが、たまたま近くに居た人が、
「八年前に来た時にもこうなっていました」
昭和になってから発掘したともいわれるが、その個所もどこなのかわからない。
昭和初期にはここに高等学校が建てられこともあったというが、今はブランコや、すべり台などがあって遊園地にもなっているところもある。
義士旧宅跡
浅野家は、匠頭の祖父の代から塩づくりに励げんだ。「赤穂塩」は質量ともにすぐれ、市場を拡大し、他を圧倒した。
ところが、企業戦争に破れた三河の吉良は、「饗場塩」のゆく末を心配し、浅野家に製塩の技術指導を依頼したが、浅野家の塩担当重役大野九郎兵衛はこれを断った。吉良方は浅野の製塩技法を盗むためにスパイを送り込んだりしたが、捕らえられ殺されたこともあった。こうした諸もろの要因が背景にあって、後の刃傷事件まで尾をひいたのではないか。ともあれ事件の真相は闇の中だ。
「赤穂から阿房に成って仇を討ち」
大石内蔵助以下、義士達は阿呆になり忍従を重ね、世間を欺きとおし、ついに主君の仇を討ち果たした。江戸庶民は「アコウ」と「アホウ」の語呂合わせで、事件を落書や川柳で笑いのめした。
その、四十七士の旧宅が、今でもいくらか残っているのかと思っていたが、行ってみると三百年前からの家は無かった。街角の雑草が生えた空地に
「不破数右衛門旧宅跡」
「間瀬久太夫旧宅跡」
と義士宅跡に石柱が建っているだけだった。
それが現在住んでいる人家の前にあったりしている。長い間に子孫以外の人が住むようになってしまったのだろう。武家屋敷跡の通りの中にいると、元禄の昔もこうであったろうと、遠い時代を散策しているような気分につつまれてくる。
義士の旧宅めぐりをしているうちに、ここに住んで居た人達は、皆、平凡に生活していて、刃傷事件がおきるまではごく普通の人達ではなかったかと思うようになった。
一番先にみつけたのが大野九郎兵衛宅の跡だった。
石柱の他に立て札があって、「それには一代家老の大野九郎兵衛は討ち入り前、夜陰に紛れて逃亡した」と、書いてある。
彼は、一時斜陽化した塩業を盛立て、藩の財政危機を救い、何もしない「昼行燈」よりもはるかにお家のためにはたらいた。
「子々孫々まで恥じをさす」
というが大野九郎兵衛は逃亡だけで有名になってしまった。
安兵衛と一学の刀を見て
タイミングが良すぎたのか、その日は忠臣蔵の当たり日であった。姫路市の兵庫県立歴史博物館へ行くと「赤穂義士特別展」の開催中であった。
義士や吉良の書簡、短冊、
刀、その他の遺品。だいたい展示物はこういった物と相場
が決まっているが、面白いと
思ったのは、堀部安兵衛の刀は細身で反りが大きく、いかにも華麗な技で斬る遣い手を想わせる。一方、敵方吉良家の闘将清水一学のは、見るからに剛刀という感じの業物で太く長い、重さは安兵衛の物の倍はあろうかと思われる。これを振り回した一学は技よりも力で強引に斬るタイプで、やはり強かったのだろう。刃こぼれがしていたが、あの討ち入りの際のものだろうか。 |