も乗らなければ行けないのでは無いだろうか。特別な用件がある場合をのぞいては、行く人もほとんどないのだろうと思っていた。 ところが、下関の唐戸桟橋から巌流島行きの観光船が一時間おきに出ていた。いくつかの船会社からも便があった。下関から一キロ先にある九州の門司港からも観光便があった。一日に二十便はあるのだろう。巌流島は完全に観光地化されていた。地元ではまたと無い、かつての決闘の地を、観光資源として有効活用しているようだ。
我われの乗った観光船は定員七十名で、乗客は五十人ほどだった。源平の戦いがあった壇之浦を背に、巌流島へ向かい、わずか十五分で到着した。
決闘当時、0.1Kuであった面積は、明治から大正にかけて埋め立て工事をして、今では往時の六倍の大きさになっている。岸は石垣や蛇籠でかためられていて、映画では、対峙した小次郎と武蔵が、にらみ合ったまま波打ち際で駆け回るシーンが必ずあるのだが、そんな広い場所はない。
船着場で降りると右手に舟島神社がある。そのとなりに、みやげ店が一軒だけであって、背中に「巌流島」と染め抜いたTシャツを着た人が「巌流島グッズ」を売っている。昭和四十八年に、それまで住んでいた島民、二十三人が移転してから無人島になった。
みやげ店の人は、朝来て夕方には、下関の家へ帰ってしまうそうだ。
豊前民謡に
わしが心と巌流島は
ほかに木はない松ばかり
と歌われたそうだが、昔は松が多かったらしい。現在は種々雑多な木があったような気がするが、はあまり記憶にはない。島の大半を私有地が占め、立ち入りを制限している区域もあるが、下関市が「巌流島憩いの広場」として整備している。
島の、やや中央に小高い赤土の丘があって、その上に決闘の様子を再現した小次郎と武蔵の二対の像がある。
小次郎は、岩国の錦帯橋の近くの川原で「つばめ返えし」の技を会得したという。そのゆかりのある岩国出身の彫刻家が二体の像を造った。小次郎の像は平成十四年十二月に出来た。それから、約半年遅れて武蔵の方が完成した。試合に武蔵が遅刻した史実にならって像の製作を遅らせた。との話だが、これはもっともらしいこじつけだろう。
そのかたわらに、ここが決闘した場所といわれる砂浜があった。これも観光用に整備され、赤味を帯びた砂だけが天然らしい。武蔵が乗って来た舟を形どった磯舟も置かれている。あれもこれも、人口による造り物のようだ。「世紀の一戦」の舞台としてはちょっとさびしい感じがする。
昔からこの島を訪ずれた人は多く、吉田松陰、坂本龍馬、斉藤茂吉など偉人や文化人の名のある人たちがいた。中でも歌人斉藤茂吉は、この島で「武蔵は卑怯者なり」と大声で叫んだという話が残っている。彼の随筆「巌流島」では、武蔵をさんざんにこき下ろしている。
『巌流は刀を以て渡合ふに武蔵は重い木刀を以てし、巌流の刀の刃の武蔵に及ばぬ先に、重量の大きい木刀は巌流の頭蓋を打ちくだいてしまった』。
『三時間も故意に敵をいらいらさせるなどは如何にも卑怯者であり、また一方が剣で闘ふなら一方も剣で闘はなければ、剣客の勝負としては面白くない』。
『武蔵の所做(しょさ)をひどく悪(にく)みながら此島を去った』。
島を訪れる人たちは、ここで闘った二人に、それぞれに何らかの思いをいだいている訳なのだが、それを歌に託した歌碑がある。
この島に二人降り立ち闘ひし
むかしの男の恋ほしかるかな
勝者の勇気と敗者への優しさと気遣いが感じられる。なんといっても、この巌流島は佐々木小次郎が主人公だ。やはり彼を扱った文学碑がある。村上元三の小説「佐々木小次郎」から巻末の一節がしるされた、舟を形どった文学碑である。
白い雲の沸いている空に、小次郎の面影が見える。
この後も、絶えず兎禰(とね)(小次郎の恋人)の眼に浮かんで、消えないであろう小次郎の、生きている面影であった。 |