にもその時は干潮時だった。鳥居まで潮がひいていて、歩いて行けそうだった。砂地がわずか窪んで出来た水溜りを右に左に避けながら、五十メートルほど歩いて目指す大鳥居にたどり着いた。
大鳥居は引き潮の砂の上に大きく聳え立っていた。本柱の前後に控柱をつけ、本柱との間を貫でつなぎ六本足で立っていた。この柱は三人で囲んでも手が届かないほどの太さと聞いたことがあるが、来てみて納得がいった。
ただ、砂の上に置かれただけで、この鳥居は、これまで千年以上の間一度も倒れることも、波で流されることもなかったという。
鳥居の下から上二メートルくらい朱塗りの塗料が剥げて真っ黒くなっているのは満潮時に海水に浸るためだろうと思っていた。だが、よく見ると、大豆粒ほどの小さい黒い貝が柱を取り巻いているためであった。この黒い貝は「フジ虫」といって木を食う虫なのだそうだ。社殿は海中に建てられているから、床下の柱にも無数にくっついていた。食い荒らされてボロボロになった柱を、継ぎ足して修理したのが多く見受けられた。
観光客がお賽銭のつもりで挟みこんだのだろう。ひび割れした柱のわずかな隙間に、一円、五円、十円硬貨が無理に押し込まれていた。
やっと念願がかなって、ここまで来ることができたと、鳥居をなでてみたが、硬貨や黒い貝殻がじゃまだった。
厳島神社
天橋立、松島と並んで日本三景の一つとして知られる「安芸の宮島」。周囲三十キロの宮島に鎮座するのが厳島神社である。この神社の創建は推古元年というから、今から千五百年ほど前になる。後に毛利元就、平清盛、源頼朝、豊臣秀吉など、時の権力者の篤い庇護をうけて発展した。
なかでも平清盛は平家の「氏神」として戦勝祈願し、勝利するごとに社殿などを寄進し、壮麗な神社が造営された。
元々、平家一門の守り神は、京都の平野神社であったのだが、平清盛がこの厳島神社に力を入れ増築、造営して病身の重臣が快癒祈願に参詣するなど、平家にとってこの上ない神社であり、一門の「永遠の繁栄」の象徴でもあったのだろう。
宮島杓子(みやじましゃくし)
宮島の土産店は、どこをのぞいても「杓子」がたくさんならんでいる。なんでこんなものが土産品になるのだろうと店の人に、そのいわれを聞いてみた。
この宮島杓子は平安時代から食事の時の匙(さじ)として使用されていた。最初はハスの花弁に似た形をしていた。それが現在のようなかたちになったのが江戸時代に「誓信」という僧侶が弁天財の持っている琵琶(楽器)の形を模倣したのが始まりで、飯を盛るには使い勝手がよく、明治時代になってその他の地方でも売られるようになった。「敵を召し捕る」の語呂合わせで「飯取る」と言われ、縁起物の杓子として神聖な島内所産の松などから宮島杓子が作られた。
やがて土産物として販売されるようになり、宮島杓子は日本全国に広まった。
「元祖」宮島杓子は、現在も宮島を代表する土産物となっている。
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